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江戸っ子が見た京男


渓斎英泉『万寿嘉々見』より

画について

男は、まるで女のように、両足をぴったり閉じて、男のほうから、女に身体を密着させていて、江戸っ子の交わりとは違った印象があります。

男は、女の耳元で囁きます。

「お金を払ってセックスするよりも、こうして人目を盗んでこっそりと楽しむ方が、いろいろ面倒が無くてよい。俺は、情夫にしておくには、ちょっと男が良すぎるなぁ」

と、そんなことを言っています。

書き入れ原文

男「どっとえらい出しようじゃぞえ。久しぶりで逢うゆえか、気のいきようがほんまじゃ。銭だしてとぼすより、こう忍んで楽しむが、あとはらやめいでよいわい。おきせんには、ちと男が良すぎておるぞえ」

女「今夜は大坂の浜百の宗兵衛さんが来てじゃさかい、奥の座敷は賑やかじゃわいな。こないにしても誰も知るこっちゃないわい」

(音、ゴボゴボ、グスグスグス、スッポスッポスッポスッポスッポスッポ)

中野愛梨コメント

この男性は、ニヤニヤして、ちょっと女っぽいですね。
作者の渓斎英泉は、江戸の人で、「京都の男は女っぽい」と思っていたのかも知れません。

絵師紹介:渓斎英泉

江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師。終生、酒と女を愛し、女郎屋の経営もしていた。また、宋・明の唐画を好み、書を読み耽ることが趣味であった。

美人画で名高い英泉だが、文筆家としても活躍し、数多くの春画と艶本(好色本)を発表した。北斎に先駆けて、日本で初めてベロ藍を用いた藍摺絵(あいずりえ)を描いた絵師でもある。また、名所絵(風景画)も知られており、歌川広重と合作の『木曽街道六十九次』では全72図のうちの24図を、英泉が描いた。
英泉の画風に学んだ絵師の一人に、歌川国貞がいる。国貞とは合作の錦絵があるほか、英泉が文を、国貞が絵を担当した艶本もある。
用いた画号は数種類ある。

寛政2年(1790年)、江戸市中の星ヶ岡に、下級武士の子として生まれる。6歳で実母を失ったのち、継母に育てられる。

12歳から狩野派の門下で画技を学ぶ。

15歳に元服を機に、安房国北条藩の水野忠韶の江戸屋敷に仕えるが、17歳のとき、上役と喧嘩沙汰となり、職を追われて浪人となる。狂言作者・初代篠田金治(後の並木五瓶)のもとで、狂言作者見習いとなる。

20歳で両親を亡くし、3人の妹を一人で養う身となる。水野家に仕える多くの血族からの支援を嫌い、狂言作者の道を断念。美人画で人気の浮世絵師・菊川英山の門人となり、英山宅の居候となって学ぶ。近所に住んでいた葛飾北斎宅にも出入りし、その画法を学び取っていく。

22歳、千代田淫乱の名で最初の艶本発表。以降ほぼ毎年、さまざまな隠号をもって人気の艶本を発表。傑作として知られる『春野薄雪』は、32歳当時の作品である。

39歳、江戸大火で家を失い、同年、縁者の保証倒れにも見舞われる。その後、根津の花街に移住し、女郎屋の経営を始める。

嘉永元年(1848年)、59歳で没。墓は杉並区高円寺南の福寿院にある。

英泉の錦絵作品は1700枚以上確認されているが。そのうち1200枚以上が美人画である。(歌川国貞の美人画枚数は1313枚。)
美人画のうち400枚以上は、吉原の遊女を描いたものであり、そのうち300枚以上に遊女名が記されている。遊女名記載作品は、吉原遊廓や遊女がスポンサーとして入銀していたと考えられている。

耳であじわう《艶声春画》

当記事に掲載したように、《艶声春画》イベントでは、春画の解釈や書き入れなどを、耳で聴いてわかりやすい言葉で解説したり朗読したりしてゆきます。

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